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分节阅读 213(1 / 2)

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う説がある。まり、秀吉に敗れた後、竹槍に突かれて死だのは光秀の影武者だったというのだ。光秀は信仰心が強く、信長を排除した後に自分も死でいいとは考えなかったのではないだろうか。

計算高い光秀は事件後のことも当然考えていただろう。「三日天下」となってしまうほどの無様をさらすことはなかったはずだ。

だが、この後歴史上に明智光秀という人物が登場することは二度とない。秀吉と並ぶ有能な武将は本当に死でしまったのだろうか。届けられた光秀の首は、すでに腐敗が進み、誰の首か見分けはかなった。

桔梗塚の伝説

岐阜県のとある町に伝わる伝説がある。

生きのびた光秀は中洞なかぼら村現在の美山町中洞にかくれ住でいた。秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ死に、光秀は荒深小五郎荒木の恩の深さを表わしていると名のり静かに暮らしていた。関ヶ原の合戦の時に家康に見方しようとしたが、途中厚見郡藪川で洪水にあい死亡。家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓をたてた。これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っている写真。

光秀の家紋は桔梗である。

光秀生存を暗示するもの

比叡山のある寺に不思議な石灯籠がある。その灯籠には次のような字が刻まれている。「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。まり慶長20年2月17日に光秀が寄進したというのだ。この光秀とは何者だろう。江戸時代に明智光秀が生きていたのだろうか。

大阪岸和田にある本徳寺という寺には光秀の位牌が残っている。その光秀の位牌の裏にもまた謎めいた文字がある。「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年に寺の寄進者になっているというのだ。慶長年間に光秀が生きていたことになる。この位牌には他にも文字が書かれているのだが、上から漆が塗られ消されている。何が書いてあったのだろう。何とか解読してみたいものだ。

また、この本徳寺には唯一の光秀の肖像画が残っている。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。それは「放下般舟三昧去」の部分で、まり、仏門に入り去っていったということである。光秀はこの寺に来て、仏門に入り、その後寺を出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか。本徳寺は光秀の子が住職だったことがあることでも知られている。

光秀が生き延びた可能性を窺わせるものを紹介したが、生き延びたのであればその後の光秀はどうなったのであろうか。肖像画に書かれているように、仏門に入ったのであろうか。最初の推理通り、本能寺の変の黒幕が家康であるなら、どこかに接点が出て来ないとおかしい。

天海僧正

さて、家康の相談役的な存在に南光坊天海という人物がいる写真東毛歴史資料館。「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。名前の通り仏教僧だが、関ヶ原の合戦の頃、突如歴史上に登場する。それ以前、どこで何をしていた人物なのかは不明。一応、1536年に生まれ1643年に病没ということはわかっているが出生は不明。一応、1536年に生まれ享年108歳と伝えられているが120歳という説もあり推定の域を出ない。「私は一度死でいる」という風説も聞くが、この天海こそ光秀ではないかと疑いたい人物なのだ。明智旧稿実録では光秀は1528年生まれとされているが、これも確かな数字といえるかは微妙なところのようだ。この定説でも10歳の差もないので、確定的なことが言えない両者の年齢では誤差のうちと言えるのではないだろうか。

両大師伝記では、天海は足利義澄11代将軍の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。

天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。

天海の姿は関ヶ原合戦図屏風で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をけている。「南光坊」と書かれているので間違いない。僧でありながら鎧をけているのだ。

何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。

関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。

春日局

3代将軍家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。

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